Tottori diary

水彩画を通して伝える、心の原風景|竹内 ロウ

竹内 ロウ

PROFILE

鳥取市出身で、長年東京で漫画家として活動したのち、数年前から水彩画に挑戦。3年前に鳥取に拠点を移してからは、自宅から歩いたり自転車で移動したりしながら出会った風景を水彩画に描き、Instagramに投稿。圧倒的な画力で描かれた鳥取の景色は、どこか懐かしさを感じさせる。

漫画家になりたい

 物心着く頃から手先が器用で、絵を描くことが得意だった。漫画界の巨匠・手塚治虫の「鉄腕アトム」などを真似て描くのが、日常の中の遊び。鳥取工業高校に進んだが、自分の中にはずっと「漫画家になりたい」という夢があったという。

 

「工業高校の友人たちは卒業すると就職する人が多かったけど、自分はどうしても夢を諦めきれなくて。親に言ったら『どうやって食べていくの?』と反対されたんだけど、あまりに粘ったのか、親の知り合いに東京で漫画家をしている人が見つかって。そこにお世話になることになったんです」

 

 10代で夢を叶えるために東京へ行き、下積み時代を過ごした。

 

「その人に絵を見せたら『お前、下手くそだな』と言われて(笑)。一から徹底的に鍛えられましたね。実際プロの人からすると、使いものにならないレベルだったと思います。それから漫画家になれたのが7年くらい経った頃ですかね」

 

 20代後半で漫画家として独立すると、主に青年誌で連載をもらうようになった。リアルな描写が好きで、ストーリーに臨場感を感じさせる細かな背景や、人物の心理描写をより豊かな表現で描いた。

漫画家から水彩画家への転身

 時代の変化もあり、紙媒体が急速に弱くなると、数年前から雑誌の休刊や廃刊が続いて連載が打ち切られることが増えた。苦しい状況の中、ある日テレビで芸能人が水彩画に挑戦する番組を見た。お手本で講師が描く絵を見て、「あれ、俺でも描けるかもしれないと思ったんです」。それから水彩画を描き始めた。

 

 「最初は風景じゃなくて、好きなミュージシャンを描いてみたり、車を描いてみたり。それで絵が溜まってきたから知り合いの店で小さな個展を開いたら、絵が売れて。漫画は出版社から原稿料をもらうだけだけど、絵は直接その人が気に入って買ってくれるのがわかる。嬉しかったですね」

 

 水彩画を描くうちに、ふと思った。「鳥取の景色を描いてみよう」と。盆や正月に帰省するたびになんとなく撮っていたものや、鳥取に住む弟妹に送ってもらった写真を見ながら描き貯めるようになった。

 

 「妹にも勧められて地元新聞社に掲載してもらったら取材依頼が来て、驚きました。メディアが取り上げることって東京ではないですから。それから個展をやったらすごく反響があって、自分がやってきたことが活かせる道がここにあるかもしれないと思いました」

 

  3年前に鳥取にUターン。40年以上続けた漫画家の仕事を辞め、鳥取で水彩画家としてやっていく覚悟を決めた。

懐かしさや鳥取の自然の豊かさを絵に

 鳥取の景色をこれまで、500枚以上は描いてきた。3日もあれば一枚描くことができる手の速さは「漫画家で締め切りに追われてきたので、早く描けちゃうんです(笑)」。描くときは、筆を静かにスーッと入れる。細い電線も、迷うことなく筆を走らせる。長年磨いてきた技術が、緻密な竹内さんの作品を生んでいる。

 

 「これまで、いろんなところを描きましたね。近所を歩いたりしながら、絵になるなと思ったら描きます。どこか有名な場所とかそういうのでもなく。路地に入って写真撮るから怪しいやつでしょうね(笑)。ありきたりのなんでもない景色かもしれないけど、僕は自分の記憶にある景色や懐かしさ、古き良き鳥取を描きたいんですね」

 

 長く故郷を離れていたが、水彩画を通して、郷土愛が強くなった。 だからこそ、絵にしておきたいものがある。

 

 「40年前の風景とは変わっているけど、残っているものを見つけたり、面影を感じたり。ここ3〜4年鳥取の風景を描いているけど、描いた建物が今は更地になってしまっていたりする。そういう時に、描いておいて良かったなと思うんです。なくなってしまっても、それが確かにそこにあったという記録にもなるし。愛着というか、郷土愛というか。今だからそういうものを感じる自分がいます」

 

 鳥取に帰って絵を描くことで、身近な景色の見え方も変わった。
のどかな暮らしに余白を感じ、豊かな自然を描きたい気持ちも出てきた。

 

 ここに暮らしながら、鳥取の絵を通して、 誰かの心にある原風景をこれからも描いてゆく。

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